2010-08-25

今昔物語集の巻十一から巻十七

ここしばらく、declaratorにたいする分かりやすい説明が書けず、C++本の執筆が滞っている。気分転換に、この数日で今昔物語集の巻十一から巻十七までを読んでいた。岩波の日本古典文学大系の今昔物語集三の範囲である。内容は、本朝付仏法である。天竺、震旦ときて、ようやく本朝に入った。

まずは、日本に仏教が入ってきた初期の段階での説話がある。これは、なかなか面白い話が多い。

ところが、続く巻は、あまり面白くない。数多くの話があるが、お互いに似通った話が多いのだ。どの話も、主語は、「法華経を持せる人」とか、「佛、観音、菩薩の助けを蒙りたる人」であり、目的語は、「難を逃れたる」、「活るを得たる」、「便を得たる」、などである。また、往生譚も多い。

これらの話は、ほとんど同じ話で、読んでいても飽きてくる。それに、ほとんどが他の書物から引いてきただけの話で、霊異記を読んでいる身としては、目新しい話がない。それでも、巻十七には、興味深い話も多かった。興味深い話に限って、典拠が判明していないのである。だからこそ面白いのだろうが。

また、強引に仏教と関連付けているが、どうもおかしい話も多い。素直に解釈すると、話の中の主人公は、嘘を付いていて、実は極悪人なのではないかという話も多く見られる。

例えば、巻十七 籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語 第卅三だ。私の解釈では、以下のような話になってしまう。

今は昔、一人の僧が、鞍馬寺にこもって修行をしていた。ある寒い夜のことであった。僧は薪を集めて火をつけ、暖を取っていた。とそこへ、一人の寒さに震えた女人があらわれ、焚き火の前に座った。得体のしれぬ気味の悪い女である。とはいえ、何しろ、今は昔の話である。浮浪者の一人や二人いてもおかしくはない。ましてや、ここは京に近い寺である。寺の周りには、いわゆる正式な僧ではない、寺の奴婢として日夜にこき使われる聖や、寺をアテにした乞食の類が、相当うろついていたはずである。この女も、所詮はそういう乞食であろう。

ところが、この修業の僧は、女人を不気味に思ったのであろう。金剛杖の先を火で熱して、女の胸を強く突いた。もちろん、こんなことをされれば、だれだって激怒するに決まっている。女は当然の如く激怒し、修行の僧の頭を張り倒した。そこで僧も、金剛杖をさんざんに振り回したのである。

さて、夜が明けてみれば、そこには、青あざ傷だらけになった僧と、言われなく杖で散々に打ちのめされて死んだ女とがあった。これはまずい。僧の身でありながら、無慚破戒にも殺人を犯したわけだ。これが世に知れ渡れば、檀越はいなくなるであろうし、僧の位は取り上げられ、還俗させられてしまうだろう。たちまちに僧は一計を案じた。すなわち、つくり話をこしらえたのである。

「昨夜、鞍馬寺で焚き火をしていたところ、鬼が女の形となって現れた。まさに大口を開けて我を飲み込もうとした。もはや助からぬ。『毘沙門天、我を助け給え』と念じたところ、たちまちに朽木倒れて、この鬼を打ち殺したのだ。」と。

その後、その僧は、そそくさの他の所に逃げ去ったという。この僧の嘘が一人歩きした結果、今昔物語集の説話となったのであった。

実は、この次の、僧、依毘沙門助令産金得便語 第卅四も、だいぶ怪しい話である。黄金を得たというのは、じつはこの僧がひそかに母子を人に売って、それで得たのではなかろうか。また、この話には、なかなか興味深い部分もある。「然れば、本は黄金(キガネ)と云けるに、其より後、子金(コガネ)とは云にや有らむ」という部分である。どうも、この手のこじつけに似た由来譚は、山姥の血で蕎麦の根は赤いだとか、フルヤノモリのせいで猿のしっぽは短いなどという話と似ている。

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