2010-05-23

笑い話

ケチな隣人

昔々、あるところに、とてもケチな主人が二人、家を隣り合わせて住んでいた。ある日のことである。ケチな主人は、釘を一本打つため、カナヅチを必要としてた。ケチな主人は、下男に言った。

「おい、ちょっと隣の家に行って、釘を打ちたいので、カナヅチを貸してくださいと頼んでこい」

そこで、下男は隣の家に行き、釘を打つのでカナヅチを貸して欲しい旨を伝えた。

「なに、カナヅチを貸して欲しい? おう、いいともいいとも。貸してやろうさ。あ、ところで、打つというその釘は、木の釘かね。それとも、鉄の釘かね」
「はあ、普通の鉄の釘ですが」
「そうかそうか。ああ、残念だったな。ちょうど今、カナヅチは人に貸していたところだった。これは申し訳ない」

下男は不思議に思いながら、家に戻り、家の主人に、このやり取りを伝えた。

「何ィ、鉄の釘を打つと言ったら、カナヅチを貸してくれなかっただと。ふん、大方、鉄の釘を打つと、カナヅチが痛むので、わざと貸さなかったのだろう。なんてケチな奴だ」
「そういう事だったのですか」
「しかも、嘘までつくとはけしからん。こうなっては仕方がない。家にあるカナヅチを出して使おう」
「・・・・・・」

ホラ吹き

昔、婿入りをしてきた花婿に向かって、義父が言った。

義父「ワシはかつて、牛が千頭も、同時に入って足を洗えるほどの、巨大なタライを見たことがあるぞ。婿殿、お前さんは、どんなでかいものを見たことがあるかね」
婿「そうですね。僕はそんなでかいものを見たことはありませんね。ただし、僕もかつて、天にまで届くほど背の高い竹を見たことがありますね。」
義父「そんな長い竹など、何に使うのだ」
婿「義父さんの見たというタライの、タガに使うのでありましょう」

米倉千

昔々、あるところに、貧乏で正直な爺と、金持ちだが意地悪な爺が住んでいた。正直な爺は、ふとした善行のおかげで、打ち出の小槌という宝物を得た。欲しい物をつぶやきながら、この打ち出の小槌を振ると、欲しいものは何でも出るという。ただし、制限回数が定められていて、五回しか使えないとのことであった。

さて、この打ち出の小槌で、何を出すべきか。正直な爺は、婆と相談したところ、米を出すべきだという結論に達した。そこで、正直な爺が、「コメ」と言いながら、打ち出の小槌を振ると、家の前に、米俵が山のように積み上がった。

これだけの米を、そのまま野ざらしにするわけにはいかぬ。そこで正直な爺は、今度は、「クラ」と言いながら、打ち出の小槌を振った。すると、こんどは、大きな倉が現れた。

さて、正直な爺と婆は、これにて満足し、残り三回使える打ち出の小槌を、特に使うこともなく持っていた。そこへ、意地悪な爺がやってきて、急に大きな倉と、山のような米を手にした理由を聞いてきた。

人のよい正直な爺は、打ち出の小槌のことを打ち明けた。これを聞いた意地悪な爺は、打ち出の小槌を自分にも使わせるように要求した。正直な爺は、米と倉の他に、特にコレといって欲しいものもなかったので、打ち出の小槌を、意地悪な爺にあげてしまった。

さて、意地悪な爺は家に戻り、これまた意地悪な婆に、打ち出の小槌という宝物が手に入ったことを告げた。聞いて、意地悪な婆は、爺の手から打ち出の小槌をひったくると、欲深なニヤケ笑いをしながら、小槌を振った。

まず、意地悪な婆は、「雑炊千」と叫んで、打出の小槌を振った。すると、雑炊が千杯、出現した。次に、意地悪な婆は、「草鞋千」と叫んで、打出の小槌を振った。すると、草鞋が千足、出現した。

意地悪な爺は、打出の小槌を取り上げて、意地悪な婆を叱った。

「お前は一体なんという阿呆だ。千杯の雑炊など、どうやって食うのだ。すぐに腐ってしまうわ。それに、草鞋が千足あっても、どうしようもないわ。たったの三回しか使えないのに、もう二回も無駄に使ってしまったではないか」
「すまんよう。オレ、考えてなかったわ」
「ええい、もういい。ワシが最後に使う」
「だども、あと一回しか使えないだで、はぁ、どうするつもりだ。米を出したら倉が出ねーし、倉を出したら、米はねぇ」
「何、米と倉をいっぺんにたくさん出せばいいだけじゃて」

意地悪な爺は、打ち出の小槌を振り上げると、「コメクラ千」と叫びながら、勢い良く振り下ろした。すると見よ、千人の小盲小僧が、眼前に出現したではないか。

あっけにとられる意地悪な爺婆を前に、千人の小盲小僧は、それぞれ、千杯の雑炊を食べると、千足の草鞋を履き、どこかへ歩いて行ってしまった。

正直な打ち出の小槌を手に入れる経緯も書こうと思ったが、省略した。よくある話では、たいてい、竜宮かどこかから得たということになっている。善行というのは、刈り取ってきた柴を、水の中に投げ込んだところ、ちょうど竜宮では、柴が不足していたので、大いに感謝されたなどということが、ありきたりである。

柳田國男は、これを、前時代の水の神の信仰に基づくものと考えている。

また、正直な爺と意地悪な爺、上の爺と下の爺、などという対比は、いくつか意見を述べている。ひとつには、分かりやすい対比をさせることによって、話を面白くするということ。あるいは、その天運にあらざるものは、たとえ成功者のマネをしても、無駄だということなど。

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