2010-03-25

自主規制の不思議さ

アメリカで、Public Optionの法案が通った際、Joe Bidenという議員が、"This is a big f---ing deal!"と、ささやいたらしい。アメリカのテレビは、この失言に対して、BEEP音をかぶせて、自主規制した。議員が失言したことは伝えるのに、なぜ、肝心の言葉を、自主規制するひつようがあるのだろうか。

Fで始まるこの言葉は、単なる発音に過ぎない。日本では、単なる発音にBEEP音をかぶせて隠すということは、聞いたことがない。唯一聞いたことがあるのは、「さあ、CMの後で、後驚きのXXXが! チャンネルはそのまま」といった、演出でしか、BEEP音を聞いたことがない。

たとえば、国家機密の情報を報道統制するとか、そういう類ではなくて、このような、特定の単語を消すのは、どうも、日本人としては、理解できない。

もちろん、日本でも、テレビで使えない言葉というのはある。私が思うに、その多くは、別に使っても問題ない言葉であると思う。「かたわ」というのと、「身体障害者」というのと、「フィジカリー・チャレンジド(神から肉体的に試練を与えられた)」というのに、何の違いがあるというのか。最近では、障害者や便所という言葉すら、差別用語だと言われる始末である。これらは、法律にも使われている言葉だというのに、何が問題なのだろうか。

これによってこれを思うに、使い慣れた言葉は、差別であると感じるのであろう。つまり、「お前」とか、「貴様」というのが、本来は尊敬の意味を含む代名詞であったのに、あまりに頻繁に使われた結果、尊敬の意味がうすれてきて、「あなた」という、本来、人称代名詞ではない言葉を使うようになったのも、そのためであろう。

とするならば、今尊敬の意味を込めて使われる言葉も、後の世には、侮蔑の言葉と成り下がる恐れがある。我々は、一刻も早く、新たな代名詞を、どこかから借りてきて、人称代名詞にしなくてはならぬ。YOU早く新しいWORD見つけちゃいなYO。

それはさておき。

このニュースを聞いたものは、誰でも、Fから始まるこの言葉が何であるのか、すぐに分かるはずである。では、なぜ隠す必要があるのか。

日本のテレビでは、たとえ政治家が放送禁止用語を漏らしたとしても、それを報道する際に、このように露骨にBEEP音をかぶせてまで、消そうとはしないだろう。

例のごとく、この疑問を、IRCでアメリカ人にぶつけてみたところ、彼らは、次のように聞き返してきた。

我々は皆、チンポがどういう形をしているか知っている。なぜ日本は、自主規制するのだね。我々は特定の単語の音を自主規制し、片や日本は、チンポを自主規制する。同じではないのかね。

確かに、なぜ、日本では、局部にモザイクをかけなければならないのか、私には分からない。何となれば、我々が皆、必ず持っているモノではないか。

しかし、もはや、日本の自主規制は、意味が無くなっていると、私は思う。今や、日本のポルノ制作会社は、海外にダミー企業を設立し、サーバーも海外に設置して、グレーだが、日本に無修正のポルノを提供しているのである。こうなってしまっては、もはや、国内の法律は、あまり役に立たない。確かに、実質は日本人によって行われているので、国内では、摘発される恐れがある。しかし、これを摘発するのは、他国の警察や司法と、連携する必要がある。とても面倒なので、児童ポルノなどの、他国も同意してくれる、よほどの理由がなければ、現実的に、摘発できないのである。

今や、我々は、インターネットのおかげで、自国の自主規制から、逃れることができたのである。Thanks Internet!

ところで、ひとつ思うことがある。このような自主規制を強いるのは、制約である。我々は、このような制約から、出来る限り、解放されるべきである。しかし、思うに、この日本の、局部にモザイクをかけなければならないという制約、果たして、悪ばかりだと言えるだろうか。

実は、日本のポルノは、そのあまりにも馬鹿げた企画力により、海外から、高い評価を受けている。具体的なリンクを貼るのは、差し障りがあるので避けるが、我が日本国には、実に馬鹿げたポルノが、大量に出回っている。思うに、モザイクを掛けなければならないという制約が、このような、変な方向性を生み出したのではなかろうか。

エロゲもそうだ。エロゲは、単なる絵に過ぎない。絵であるのに、何で局部にモザイクが必要なのだろうか。表現の自由に対する、憂うべき制約である。しかし、仮に今、エロゲのモザイクがなくなったところで、より良いエロゲが生まれるとも思わない。

たとえば、かつて、学帽というものがあった。日本の学生は、皆、この安っぽいダサい帽子をかぶって、学校に通っていたのである。この、決まりきったダサい帽子をかぶらなければならないというのは、制約である。では、現実は、どうなっただろうか。

当然、日本の学生は、皆、この学帽という制約が気に入らなかった。それゆえ、皆、この学帽の改造に苦心したのである。

これは、現代の学校の制服にも、言えることである。日本の制服は、大して質も良くないのに、ボッタクリ価格である。よほど大きな利権があるのであろう。もし、日本の教師たちが、真に学生の服装の乱れを正したいとするならば、直ちに制服を廃止するべきである。馬鹿げた制約がなくなれば、馬鹿げた改造もなくなるというものだ。

この制約というものは、単に規制に限らない。たとえば、音楽は、近年、DTM機材の性能向上に伴ない、はるかに制約がなくなった。もはや我々は、鍵盤のような物理的な装置に頼って、音楽を演奏する必要はないのである。ゲームコンソールでも、ファミコンやスーファミのような、FM音源から、今や、PCM音源である。もはや、FM音源のような制約は、存在しないのである。歌もそうだ。最近は、音程をリアルタイムで自動的に調整する機械まであると聞く。

では、音楽は、昔に比べて、はるかに優れたものになったかというと、どうも、そうは思わない。

インターネット自体もそうだ。今や、ネコも杓子もブロードバンドである。何百MBものファイルサイズの動画をアップロードして、わずか数分で全世界に公開するのは、至極当然である。では、インターネットは、10年前と比べて、はるかに優れたものになっただろうか。

この、制約の中で生まれる芸術というのは、実に興味深い。誰か、詳しく研究していないものだろうか。

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