2008-08-02

臥薪嘗胆

臥薪嘗胆といえば、中国のとある王が、恨みを忘れぬようにするため、あるは薪の上に臥し、あるは肝を嘗めた故事による、ということは、みな知っている。しかし、その詳しい話はどうだろうか。

紀元前496年の事である。越では允常が死に、子の勾践が王位についた。勾践には、范蠡という名臣がいた。ところで、呉王闔閭は、允常の死を良い機に、越を滅ぼそうと兵を起こした。しかし、范蠡は呉の動きを見抜き、先手を打って兵を進め、優れた策を用いたため、呉軍は敗走した。闔閭は流れ矢によって指に受けた傷がもとで、無念にも敗走の途中で死んだ。死ぬ間際に、闔閭はその次男、夫差に向かって言った。「夫差、而は越人の而の父を殺ししを忘れたるか」と。

父闔閭に変わって呉の王となった夫差は、固く復讐を誓った。兵を訓練し、自らは薪の上に臥した。夫差は毎夜、角ばった薪の痛みに目を覚ましては、父の遺恨を思い返すのであった。また、自分の部屋に入るものは誰であれ、父の遺命を叫ばせた。「夫差、而は越人の而の父を殺ししを忘れたるか」と。

やがて勾践は、夫差が薪の上に臥してまで復讐を狙っていることを知ると、即座に呉を攻めようとした。范蠡は勾践を諫めたが、勾践は聞き入れなかった。夫差は越軍を迎え討ち、これを破った。勾践はわずかに残った手勢と共に会稽山に逃れた。

ここにいたって、勾践は范蠡の諫言を聞かなかったことを悔いた。范蠡は勾践に説いて言った。
「常に心を持ち、苦難に耐え、質素を守れば、天地人の助けを得られましょう」
「しかし、呉の大軍に囲まれている現状は、どうすればいいだろう」
「今は、呉の臣下となり、和を請うより他に仕方がありません」

そこで、勾践は呉王のもとに種を遣わし、降伏して自らは呉王の臣下となりたい旨を述べた。夫差は越王が臣下となりさがってまで許しを請うていると聞いて満足し、降伏を許そうとした。しかし、夫差の臣、伍子胥は、越は体面を取り繕っているだけで、いずれ反抗するであろうことを見抜き、夫差を留めた。しかし、種と勾践は、呉の宰相伯嚭に賄賂を送って取り成しを求めた。伍子胥はしきりに許すべきではないことを説いたが、ついに勾践は降伏を許された。

勾践は許されて国に帰った。しかし、もはや越王ではなく、呉王の臣下なのだ。句践は常に苦い胆をそばに置き、これを嘗めては、会稽の恥を思い返すのだった。曰く、「女、会稽の恥を忘れたるか」と。また范蠡の言を守り、自ら肥桶を担って田畑を耕し、夫人には機を織らせ、粗衣と粗食に甘んじた。賢人には頭をたれて教えを乞い、貧しい者あればこれを助け、もって天地人の助けを得ることに勤めた。また、先の呉の伯嚭に賄賂を送り、呉王を欺いていた。

ある時、呉王が宮殿を建造しようとするのにかこつけて、良材二百本と美女五十人を送った。この中に、中国四大美女に数えられる、かの有名な西施がいた。西施はもともと、越の苧羅村で薪をひさぐ女であった。呉王の寵姫となってからある時、西施は癪を病んで、しばらく故郷の村に帰っていた。痛む胸元を手で押さえ、眉を顰めて歩いていたが、さすがは呉王の寵姫、どんな仕草でも美しいと、村の評判であった。ところで、その村には評判の醜女がいて、せめて西施のまねをすれば、自分も少しは美しく見えるかと、胸を押さえ、醜悪な面をしかめて村を歩いてみたが、ただでさえ醜い女の奇妙極まりない格好に、居並ぶ富人の家々は、堅く門を閉じて出でず、家に門のない貧人は妻子を連れて逃げ出したそうである。この事から、みだりに人の真似をすることを「顰に倣う」と言うようになったそうであるが、このような言葉ができるほど、西施はたぐいまれな美女であった。

夫差の西施を愛することは一通りではなかった。西施のために百花州、香水渓、西施洞、玩花池、採香径、碧泉井、館娃宮を築き、春夏秋冬、西施と共に遊んだ。かつては薪の上に臥した夫差も、今は錦褥に臥して西施と色に溺れていた。一方越では、勾践が肝を嘗めていたのである。

さて、伯嚭は事あるごとに、呉王に斉を撃つべきだと進言し、呉はたびたび斉を攻めた。越が賄賂を贈って操っているのである。その意は、呉を斉にあたらせることによって疲弊させようと言う腹である。伍子胥は斉を討つ事の愚を説き、越に備えるべきだと諫めたが、呉王は聞き入れないばかりか、伍子胥が斉から賄賂を貰っているのではないかと疑うようになった。越の息がかかった伯嚭もしきりに伍子胥を讒言したので、とうとう呉王は伍子胥を殺すことにした。伍子胥の元には、属鏤という名剣が送られた。せめてもの名誉に、この剣で自害しろというのである。
「呉に背いている讒臣は伯嚭だというのに、王は讒言を信じて私を殺そうとは。王僚を暗殺して、当時の公子光を王としたのは、誰の功なのか。そもそも私がいなければ、王になることすらできなかったのに」
そして、属鏤を持ってきた使者に対して、こう言った。
「私の墓の上には梓の木を植えろ。私の死体を肥料としてその木を育て、呉王を入れる棺桶を作れるようにしよう。また、私の眼球をえぐり取って、呉の東門に置け。私はそこから、越が呉を攻め滅ぼすのを、見守るとしよう。」
そう言って、伍子胥は自ら首を刎ねた。

呉が会稽山で越を降してから十二年目の春の事である。呉王夫差は、杞の黄池に諸侯を集めて、諸侯の王になろうとしていた。精鋭の兵はみな黄池に行き、呉を守っているのは太子の友だけであった。越はこの機に四万の兵を引き連れて呉に攻め入った。太子友はあっけなく殺された。夫差がこの知らせを聞いたとき、黄池の会はまだ終わっていなかった。夫差はひたすらこのことを隠して、諸侯との盟約を終え、すぐに呉に帰った。夫差は事ここにいたって、伍子胥の言の正しかったことを知った。越の兵は強く、自軍の兵は長年の戦に疲れていた。夫差は和を求めた。越としてもまだ、呉を滅ぼすには力が足りず、和に応じた。

その四年後、越は再び呉を攻めた。その勢いはすさまじく、各地の呉軍を打ち破り、ついに呉王夫差を、姑蘇城に包囲した。夫差は大夫の公孫雄を使者として遣わし、和を請うた。勾践は哀れに思い、臣下とすることで許そうとしたが、范蠡が夫差の轍を踏むべからずと反対した。勾践は自ら使者に否と告げるに忍び得ず、使者には范蠡をもって否と言わせた。しかし、やはり一時は自分と同じ境遇に落ちただけに、殺すことは忍ばれた。そこで、せめて夫差を甬東へ移し、百家を与えて、余生を送らせようとした。しかし夫差は、いまさら臣下として生き恥をさらすに堪えず、また讒臣の言まどわされて、伍子胥を殺したことを恥じ、自ら命を絶った。「伍子胥に会わせる顔が無い」と、布で顔を覆い隠して死んだと言う。勾践は夫差を厚く葬り、また伯嚭は、不忠の臣として、殺したという。

ああ、文章を書くこと、中島敦のようには、いかないものだなぁ。やはり幼少の頃から、漢文の素読というものが必要らしい。

参考:
十八史略、史記、河出書房出版の新十八史略。

2 comments:

Anonymous said...

おお、なつかしいです。「顰に倣う」の段だけは教科書に記載されていました。
漢文は面白いですね。

江添亮 said...

なぜか夫差の最後を書くのを忘れていたのでつけたし。
この文章を書くために、十八史略や史記を読みましたが、いや漢文の素読はできませんね。中島敦のようにはいかない悲しさよ。